前回の巌(ペテロ)さんの話の続きですが、彼の挫折後の生き方について記したいと思います。
巌さんは、晴れて初代教会の長老となったのですが、相変わらず、彼には弱さがあったのです。 それは、他者からの圧力に対してめっぽう弱く、臆病風をふかせるというものでした。そのためガラテヤ2:12にあるように、律法主義者が訪れるや否や、彼は、異邦人から身を引いて、離れて、異邦人とは無関係のような立ち振る舞いをしたのでありました。つまり、彼は、律法主義者から異邦人信者に対する割礼の有無に関して、お咎めを受けるのを恐れて、逃げ去ったのでした。
この事件の前にも、彼には大きな葛藤があったのです。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(使徒10:15)
この言葉は、ペテロにとってどれほど、彼の価値観、世界観を揺るがす大きな挑戦であったかわからない幻であったのですが、これはペテロの誤った考えや固定概念を打ち砕くための神の御声でもありました。彼が夢見心地の状態の時に、上から吊り下ろされてきた入れ物の中には、モーセの律法によるならば、汚れているとされた動物が混ざっていました。また、彼のユダヤ教という宗教的感情からしても、それを食べることはできなかった事だったのです。しかし、神ご自身がそれらをきよい物とされ、食べるようにと命じておられたのです。これは、ペテロだけではなくユダヤ人ならだれもが抱いていたユダヤ人としての共通の感情だったのです。ユダヤ人にとっては、クリスチャンであっても、救いはユダヤ人に限られたものであって、異邦人にまで及ぶとは当時、到底考えられなかったし、受け入れることのできるものではありませんでした。しかし神は、こう言われたのです。「神がきよめた物(異邦人)を、きよくないと言ってはならない」と。これは、神の救いがユダヤ人から異邦人へと広げられていくことを暗示していた神からの幻だったのです。確かに旧約の時代には、救われるためには律法を守ることが必要でした。そして律法を持っていたのはユダヤ人しかいませんでしたから、救いはユダヤ人に限られたものと思われていたのです。しかし今や、イエス・キリストの到来によって始められたこの恵みの時代には、救いは律法によらず、ただ恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされるのであり、救われるのはユダヤ人だけでなく、彼らが汚れた民と思っていた異邦人にもまた、救いが及ぶという恵みの中に異邦人も招き入れられ、そうした新しい時代が訪れているということを、この幻は示していたのです。
にもかかわらず、巌であるペテロは、「主よ。それはできません」と答えました。ここには三度もそのようなことがあった後に、その入れ物が天に引き上げられたとあります。こういうことが三度もあったのです。
「さあ、ほふって食べなさい。」
「いやです。主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがないんですから。」
「神がきよめた物(異邦人)を、きよくないと言ってはならない。」
「ですが、だめな物はだめでございます。私には無理です」
「何を言ってるのかペテロ。あなたは本当に頑固だな。その名前が「巌」と言われるくらい頑固な奴だ。」
「いくら言われてもできないものはできません。無理です」
そんなやりとりでしょうか。いったい、なぜペテロは「できない」と答えたのでしょうか。それは「今まで一度も、宗教的な因習のタブーに挑んだことがなかった」からです。もしも、挑むようなことをすれば自らが、汚れると信じ込んでいたからでした。このように律法に縛られた生き方とは、過去に縛られた生き方なのです。そこからは何も新しいものは生まれてはきません。しかし今や、イエス・キリストにあって生きる者には、律法からの自由が与えられているのです。確かにかつては、そういうことは考えられなかったことかもしれませんが、イエス・キリストによって救われ、いのちの御霊をいただいている今、そうした古い生き方とは全く違う生き方、世界観、価値観がもたらされるのです。
パウロはこのことをローマ人への手紙の中で、次のように言っています。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)
イエス・キリストを信じた人には、いのちの御霊が与えられます。そのいのちの御霊が、古い律法に縛られた罪と死の原理から解放し、自由と喜びと平安という御霊なる原則を与えてくださっているのです。クリスチャンの生きる基準は何かというと、このいのちの御霊の原則にあるというのです。
前回から続く、このようなペテロの姿から、臆病で弱さを持つ、古い性質を宿した姿を垣間見る事ができます。彼が新しいひとりの人(エペソ2:15)としてのアイデンティティを構築させる生き方にパラダイムシフトされるには時間がかかった事がこれらの話から分かります。
最後にぺテロの話から、霊的成長にとって、不可欠な3大栄養素と呼ばれる3つの要素について記します。
一つは恵みであります。恵みによって、人は神の真理が受け入れられるように聖霊によって変革されていくのです。巌さんのように何度も臆病風を吹かせながらでも、前進し、成長し続けていけるのは、ひとえに恵みによるものです。
次に、真理である神の言葉や仲間からの真実の言葉です。ダビデがナタンを通してバテシェバとの姦淫とウリヤの殺人の件が訓戒され、悔い改めた(方向転換した)ように、悔い改めに導く真実の言葉や矯正が必要であります。
また、聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです(2テモテ3:16-17) とあるように、聖書の御言葉が真理であり、御言葉によって悔い改める事ができることを教えています。
姦淫を犯した女性(ヨハネ8:1-11)をイエス様は恵みを持って、無条件に赦されましたが、最後のシーンで、その彼女に対して、今後は決して罪を犯してはならないとの真理の御言葉をイエス様は与えられました。これからも姦淫の生活をしても大丈夫ですよと決して容認はされなかったのです。
最後に、巌さんの度重なる失敗の姿から分かるように、成長するには時間がかかるのです。この世の価値観として、速攻性のある特効薬を人は期待する傾向があるのですが、概して、速攻性があるものは、長続きはせずに、リバウンドしやすいものです。じっくりとシチューのようにグツグツと煮込んで時間をかける中で、失敗や挫折を通りながらも、ペテロのように恵みの中で成長していくのです。そのためには、時間も成長の要素なのです。決して時間をバイパスして成長する事はできないのです。
イエス様と直接、寝食を共にした使徒ペテロでさえも、地上の教会の鍵を握るキーパーソンとして、死に至るまで忠実な弟子として、成長するには時間がかかったことが、この一連の話からも分かると思います。いわんや…
それでは、希望を持って成長させて下さる聖霊に期待して、共に歩んで参りましょう!D