信仰のバトンリレー

今回は信仰のたすきを渡していくということについて書きたいと思います。私はお正月2日と3日箱根駅伝をテレビにて見ました。

大学で陸上をしている人にとっては、箱根駅伝に出場することは名誉なことであると同時に憧れの舞台でもあるようです。そのため、箱根駅伝に向けて学生が毎日過酷な練習を行うわけです。そして、たすきを次のランナーにつなぐために必死になって走るのです。タイムが遅ければ打ち切りになり、たすきを次のランナーにつなぐことができません。また、自分が途中棄権しても、たすきを次の人につなぐことが出来ないのです。そのため、必死になって練習し、名誉ある箱根駅伝にて、次のランナーにたすきをつなげるために必死になって走るわけです。過去の歴代の大会では、途中棄権するチームが多かった年ももちろんあるのです。

箱根の険しい登り地点で、突然足が痙攣し走れずに車にて搬送されるランナーや上位で走っていたにもかかわらず、途中で走れなくなって棄権してしまったりと、後もう少しというところで、たすきがつなげず途中棄権するチームが見られることもざらにあります。駅伝は個人競技ですが、チームプレーなのです。全力にてたすきをつなぐために

完走してきたチーム一人一人のメンバーの汗と苦労のしみ込んだたすきを受けて次につながなくてはいけないスポーツです。いわば、一人一人のチームメートからの責任を受け取り、次につないでいくのです。そのため、たすきがつなげられないことが、どれだけ罪責感と屈辱感に満たされるか容易に想像ができます。それだけ、たすきには重みがあるのです。 

さて、2テモテ2:2には「多くの証人の面前で私から聞いたことを、他の人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」とあります。この聖書箇所は信仰のたすきをつないでいくように教えている箇所ですが、この箇所を通して、「いったい私は誰から信仰のたすきを受け取り、そして誰につなげていくべきなのか?」と自分のスピリチュアルジャーニー(霊的旅路)について再考してみる機会となりました。私の信仰の面で大きな影響力を与えた人物は誰かと考えた時に、まず、私が東京に聖書を学びに行っていた時にお世話になった平野牧師が思い出されます。平野牧師は、いつも、「信仰があれば大丈夫だ。なんとかなる。」と言っておられました。平野牧師は15歳で牧師になることを決断し、親の反対を押し切って聖書学校に入学します。その後、1ドル360円の時代に友人もお金もない状況で単身でアメリカに渡り、苦学しながらもアメリカの大学を卒業されたのでした。苦労は確かにしたけれども、無事にアメリカの大学を卒業し、良い人たちに恵まれ、アメリカの教会の牧師になれたのも神様のおかげだとよく話しておられました。小さい頃はやんちゃで喧嘩ばかりし、勉強ができなかった自分が今こうして、牧師として日本だけでなく海外にも福音を伝える仕事をしているなんて、昔の自分から想像するに、今のこの自分はあまりにも良く出来すぎている、夢のようだともよく話しておられました。この祝福されている自分を見て、私には神様に返すべき負債がある。こんなに良くしてくださった神様のことを人に伝えないでいることはできないと、日本全国、海外でもどこででもイエス様の希望のメッセージを人々に伝えている平野牧師から私は多くの事を学びました。現在、平野牧師は体の半分が神経の問題で麻痺している状態です。そのため歩くのもままならぬ状態なのです。それにもかかわらず、足を引きずりながらも重々しい体に鞭を打ちながらも福音を伝えるために日本全国、海外にも駆けずり回っておられるのです。私が東京にいた頃、朝から晩まで説教をし、ご自宅に戻られる頃には、びっこを引いて重々しく車から降りられていた平野牧師の姿が今尚、私の頭に残像として刻まれております。。また、平野牧師はよく、「私たちクリスチャンはこの地上においては寄留者なんだ」とおっしゃっておられました。

平野牧師が牧会されている教会が手狭になった時のこと、自分の素敵な一戸建ての家を売却し、その費用をあてがい、駅前のビルを購入してそのビルを教会として、自分たちは4階に住むことになった時の事です。 そのビルには残念なことにエレベーターなどありません。体半分が麻痺し、歩くのもままならない平野牧師にとって、やっとの思いで階段を上がってもまだ2階しか上がっていなかったという状態が何日間も続いたそうです。しかし、神様が癒してくださると希望を持って生活していくうちに、4階までなんとか上がれるようになったとおっしゃっておられました。「私は栄光の道を歩んでいる」と平野牧師はよく口癖にしておられました。「神様に従っていく道ほど素晴らしい道はないんだと。」 実は、その平野牧師を信仰の面で影響を与えたのが本郷善次郎という平野牧師を育てた牧師だったのです。本郷先生は医学校を卒業されたのですが、キリストに惹きつけられ、医者の道を断念して牧師になった方です。当時の医者は人々の尊敬の的でしたし、給料も地位も高かったのですが、本郷先生は親の反対を押し切って名誉もお金も捨てて、当時の高校生の初任給よりも、低い牧師の仕事に満足し、いつもヨハネ15章を説教しておられたそうです。そして、よくよく「私は栄光の道を歩んでいる」と人々にメッセージをされていたとの事でした。本郷先生はホーリネスという団体の牧師でしたが、柴又という下町の小さな教会を牧しておられました。小さな柴又の教会でしたが、その教会からたくさんの牧師、宣教師が輩出されたそうです。そして、平野牧師は本郷先生のキリストへの情熱と献身に魅了され15歳のときに牧師になることを決断したのでした。特別個人的に本郷先生と時間を過ごしたことがあったわけではなく、淡々と毎回キリストについて説教する本郷先生のキリストへの姿勢と情熱、生き方によって信仰という、たすきを平野牧師は本郷先生から受け取ったのです。そして同じく、私も特別に平野牧師と個人的なつながりが、それほど強かったわけでも、特別な励ましを与えられた訳でもないのですが、平野牧師の口から発せられる希望に満ちたキリストの言葉と平野牧師のキリストへの情熱、感動に鼓舞されて神様に従っていく生き方をしたいと望むようになったのです。

この2テモテ2:2を読んで私が感じたことは、信仰というたすきを受け取り、次につなげるというのは、単に福音を伝授していくということ以上のことのような気がしています。箱根駅伝ではないですが、信仰のたすきには、たすきを受け渡す人のキリストに対する生き方と情熱、姿勢が込められているように思うからです。

単に何世代にも福音が伝わっていくという表面的な事柄以上の重みのあるたすきのような気がしてならないのです。そこには、自分のためにたすきをつないでくれた人たちの魂と霊が含まれていると思うからです。そしてその重みがあるからこそ、途中棄権して次につなげられないことなど非常に残念な事でありますし、罪責感や屈辱感を味わわなくてはならないことだと私自身は思うのです。モーセは約束の地、カナンに渡る前に力尽きますが、信仰のたすきをヨシュアにつなげることができました。そして、モーセからたすきをもらったヨシュアは無事に乳と蜜の流れる地、カナンに到着できたのです。アブラハムはイサクに信仰のたすきをつなぎましたが、イサクの子エサウは長子の特権をイサクからいただく予定でしたが、ヤコブに譲ってしまい、信仰のたすきを受け取ることなく途中棄権してしまいました。一方、ヤコブは貪欲なやり方で長子の特権をエサウからもぎ取ったのですが、そのたすきをヨセフに渡すことに成功したのです。そしてその信仰のたすきを受け取ったヨセフは神様が与えてくださったビジョンを実現させていくのです。数々の試練にもかかわらず、ついに、エジプトの総理大臣にまで上り詰めるのです。新約のマタイ伝の一番最初には系図が出てきますが、アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン移住まで14代、バビロン移住からキリストまでが14代と実に42世代に渡って、紆余曲折がありながらも、たすきリレーがなされ最後のランナーであるキリストにたすきが託され、何とも計り知れない形で神様のご計画が成就されることが書かれてあるのです。 

パウロは言いました「キリストイエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14) そのパウロは、晩年、テモテという霊的な弟子に向かってこう言っています「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去るときはすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(2テモテ4:6~8)神からの義の栄冠を得るために全力疾走していたパウロでしたが、愛する弟子、テモテにたすきを無事渡したパウロは栄光の道を無事走り終え、義の栄冠を受けるのをあとは、待つだけの身となったのです。 

今、私の肩には20年前に平野牧師から受け取ったキリストの希望のメッセージが書かれたたすきがかかっています。そのたすきは汗と涙で色が変色していますが、くっきりとした字でこう書かれてあるのを見ることができます。「私は栄光の道を歩んでいるのだ」と。