偏見の向こうには…

「イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、ダビデの子、イエス様、私をあわれんでくださいと叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、ダビデの子よ。私をあわれんでくださいと叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、あの人を呼んで来なさいと言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっていると言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がってイエスのところに来た。」(マルコ10:46~50)

このバルテマイの話は有名な話でありますが、ここで、興味深いことは、イエス様のところに救いを求めて叫んでいる盲人のこじきのバルテマイを弟子たちを含め、その他大ぜいでたしなめたというのです。つまりは

必死でバルテマイを黙らせようと弟子たちは彼を叱責しているのです。弟子たちはイエス様のところに彼が叫びながらやって来ることを必死に止めようと、黙らせようと、彼がイエス様のところに来ることを阻んだのです。ところが、当のイエス様の対応は弟子達とは違って、立ち止まって、彼をお呼びになるのでした。イエス様が弟子たちにあの人を呼んで来なさいと言われるや、今度は彼らはその盲人であるバルテマイを呼んで、今までとは打って変わって、心配しないでよい。さあ、立ちなさい。イエス様があなたをお呼びになっていると好意的な態度に豹変するのです。最終的には、この出来事がきっかけで、バルテマイはイエス様のところに来て、盲人でこじきであるという、いわばアイデンティティとなっている自分のユニフォームを脱ぎ捨ててイエス様のところに来たことがきっかけで、目が見えるようになり、救われたというのがこの話の顛末であります。

ここで気になることは、弟子たちや群衆の態度の豹変ぶりです。彼らは、バルテマイが

イエス様に近づけないように護衛としてたしなめていました。もしかしたら、バルテマイを問題のある人物として弟子たちには映ったのかもしれません。また、これからエリコを出てエルサレムに向けての旅路に向かう矢先に厄介な人物に遭遇し、行く手を阻む存在である彼がうっとうしく感じたのかもしれません。いずれにせよ、弟子たちのバルテマイへの思いはイエス様の思いとはかけ離れていた事が分かります。

このことから、もしかしたら、イエス様を求めている人物の中にはこのバルテマイのように私たちにとって、あまり関わりたくないような人物であることも想像ができます。憎たらしい人物、何不自由なく生活している倫理観に欠如している人物、社会的に汚れていると感じる人たち、馬鹿にしている人々、反社会的な人々など、案外そのような人物が声を大きくしてイエス様を求めているというようなこともあるかもしれないと、この箇所から感じさせられました。

私たちにとって、このような人物は、救いとは別に、先ずは、たしなめることが大切とのことで叱責したり、イエス様のところにその人がダイレクトに行くように勧めるよりも、ワンクッション置く方が賢明だと判断を下す訳です。しかし、イエス様の思いは、その人物が大声を出して人に迷惑をかけるようなやり方でしか、アプローチができなくとも、先ずは立ち止まって下さるのです。そして、事情を聴くために、その人物を呼んでおられるというのです。イエス様に呼ばれたこの男は、行く手を阻む関門を突破して、盲人でこじきであるというユニフォームの上着を脱ぎ捨ててイエス様のところに近づいたのであります。そのリスクを負った先には、ダビデの子であるキリストに出会い、霊的に目が見えるようになって、イエス様の行かれるところについて行ったというのです。弟子たちの偏見の向こうには、彼らの抱いた景色とは異なる景色があったのでした。